ジェイン・パーカー=スミス オルガンコンサート
2000年7月2日(日) 2:30 PM
プログラム・曲目解説
J. S. バッハ (1685-1750)
パッサカリアとフーガ ハ短調 BWV582
Johann Sebastian Bach
PASSACAGLIA IN C MINOR BWV 582
壮大な「ハ短調のパッサカリア」は、バッハの自筆譜が残っている数少ないオルガン曲の一つに数えられる。バッハのオルガン作品の頂点の一つであると同時に、それは演奏者にとっても様々な難問を課すものである。パッサカリア(あるいはシャコンヌ)は三拍子のリズムを持つもともとスペイン起源の荘重な舞曲だが、バッハの頃までには、繰り返してテーマが現れる器楽用の変奏曲として定着していた。パッサカリアのテーマは低音部に現れることが多く、このバッハの作品では足鍵盤で常にハ短調で弾かれる。通常は4小節だがバッハはこれを拡大して8小節とし、作品のスケールに合ったものとしている。テーマの前半は少し前のフランスの作曲家でオルガニスト、アンドレ・レゾンの Trio en Passacaille からの借用だが、バッハの手にかかると、あたかも大きな樫の木に成長したドングリのようなものである。つまり、それ以前のグラウンド・バス形式の(低音部に同じ旋律が持続的に繰り返し現れる)音楽は基本的にはあまり起伏のない音楽だったが、バッハはそこに変化と緊張を与えることに成功した。ここでも、先輩たちがすでに築いた基盤を使いながら何か全く新しいものを創出するという、彼一流の方法を見ることができるが、このような中でバッハの創造性は最大限に発揮されているのである。壮大な規模で展開される20の変奏の後に、同じ主題に基づく二重フーガが続く。この大規模なフーガは、ついには交響的とさえ言えるスケールのクライマックスに達した後、幕を閉じる。
リスト (1811-1886)
フュネライユ(葬送) (キナストン編曲)
Franz Liszt
FUNÉRAILLES (transcribed by Nicolas Kynaston)
フランツ・リストは1811年10月、オーストリアのライディング(当時はハンガリー)でエステルハージ侯に仕える役人の息子として生まれ、アマチュア音楽家であったその父から最初の楽器の手ほどきを受けた。11歳で始めてのコンサートを行うと同時に、ウィーンへ出てチェルニーにピアノを、サリエリに作曲を師事する。こうして彼の国際的な活躍は始まった。30歳までにはフランスやスイスを旅行してシューベルト、ベートーヴェン、ベルリオーズ、パガニーニ、ショパンと知り合い、また英国ではウィンザー城でジョージ四世のために演奏し、パリでは自作のオペラが上演され、弟子の一人と恋に落ち、伯爵夫人と駆け落ちして三人の子を設けた。その上彼は、少年時より宗教に関心を持ち何時の日か
この願望はなかなか叶わなかったが、ようやく1865年、カトリック教会から下級聖職位に叙せられたのだった。何よりもまずリストはピアニストであった、オルガンとしても相当の腕前を発揮したことは想像に難くない。彼は驚くべき即興演奏家であり、その生涯の半ばから晩年にかけてパリを訪れた際にはしばしばオルガンを弾いている。あのフランス最大のオルガンを擁するサン・シュルピス教会ではヴィドールとも会っている。
リストは1834年、「詩的にして宗教的な調べ」と題した小品を作曲した。その後1845年から1852年の間にも、同名のタイトルで8曲からなる連作を書いた。その7曲目がこのFuneraillesで、1848-9年のハンガリア独立運動の際に殺された英雄に対する哀歌である。
彼の作品にしばしば見られる悪魔的な閃きや輝きとは対照的に、ここでは悲しく沈んだ荘厳な雰囲気が支配している。この曲は、ショパンの変イ長調のポロネーズの中間部で聞こえるポーランド騎兵隊のひづめの音を彷彿とさせるものがあるが、もちろん全般的にリスト自身の個性は十分に発揮されている。またこの作品は、1849年に亡くなったショパン自身に対する頌歌とも言えよう。ショパンの死はリストにとって損失であったと同時に、次第に距離を置くようになった二人の関係を精算するものであったかもしれない。
カルク=エーレルト (1877-1933)
ヴァルス・ミニョン(可愛らしいワルツ) Op.142 No.2
Sigfrid Karg-Elert
VALSE MIGNONNE, Op. 142 No. 2
カルク=エーレルトはマックス・レーガーの後を継いで1919年、ライプツィヒ音楽院の作曲科の教授に就任した。しかしながら、エキセントリックで波乱に富んだ彼の性格は、実直なドイツ音楽界においてはむしろアウトサイダーと言えるものであった。さらにずっと遡れば、彼は同じ音楽院でヤーダスゾーンとライネッケという二人の保守的な教師に学んだのであった。エーレルトは生まれながらにして和声に秀でており、特にグリークは彼の才能を買い励ました。作曲家としては多産で様々なジャンルの作品を残したが、オルガン音楽においてよく知られており(特に英国では)久しく評価されている。
この愛嬌のあるワルツ(1930年作曲)は連作の中の一つで、作曲者自身の言葉によれば:「これは例外的な作品であって自分本来のスタイルで書いたものではない。しかしある日私は、素晴らしいシネマ(シアター)オルガンを弾いていて陶酔状態になっていた。そういう『酩酊』の中でこの曲を書いたが、実に効果的に響く音楽となった。聖セシリア(音楽の守護聖人)は私の罪を許して下さいますように.... 」
ヨンゲン (1873-1953)
ソナタ・エロイカ Op. 94
Joseph Jongen
SONATA EROICA, OP. 94
ジョーゼフ・ヨンゲンは、ちょうどヴィドールがフランスで行ったように、ベルギーのオルガン音楽の発展を心に描いた。がしかし、彼が残したオルガン作品の量はヴィドールよりは遙かに少なく、ギルマンやヴィエルヌほど変化に富んだものではない。しかしヨンゲンの作品は、その質や独創性においては決して引けを取るものではない。ヨンゲンは1873年にベルギーのリエージュに生まれ、その地の音楽院に学び24歳でローマ大賞を獲得した。ドイツ、イタリア、フランスを旅行したが、彼の音楽的な個性に対して最大の影響を与えたのは、活発なパリの音楽界であった。フランクとドビュッシーからは大きな影響を受けたが、特にシンフォニックな手法はフランクに負うところが大きい。
ソナタ・エロイカは1932年の作曲で、ヨンゲンの最も重要なオルガン作品である。ロイプケのソナタ(詩篇94番)やリストの Ad nos, ad salutarem undam(わたしたちへ、救いを願う人々へ)による幻想曲とフーガ、等と同様に連続した単一の楽章から構成されている。全体は3つのセクション:幻想曲、主題と変奏、フーガを含む終曲、に分けることができる。
- - - - - - - - - - - - 休 憩 - - - - - - - - - - - -
ホルスト (1874-1934)
組曲「惑星」 Op.32 より 火星 -戦争の神- (サイクス編曲)
Gustav Holst (1874-1934) transcribed by Peter Sykes
MARS, THE BRINGER OF WAR (THE PLANETS, OP. 32)
ホルストはイギリスのチェルトナムに生まれた。彼はペンを取ると同時に作曲を始め、楽器に触れることができるとともに演奏を始めていた。教会でオルガニストを務め村の合唱団の指揮をした。19歳でロイヤル音楽カレッジに入学してスタンフォードに師事して作曲を学んだ。
彼の創作上の危機は長く続いた。最初の大作、オペラ「シーター」はリコルディの作曲コンクールに応募して落選し、他の作品の初演も無視され続けた。しかし第一次大戦が終わって「惑星」が発表されると、それはストラヴィンスキーやシェーンベルクさえも想起させるようなモダンさを持っていたにも拘わらず、一挙に保守的な英国の音楽界にも受け入れられた。旋律、リズム、そして管弦楽法上の創意に満ちたこの革新的な作品は、英国音楽の新しい時代を切り開くものとなった。
占星術の話しをホルストに聞かせたのは友人で作家のクリフォード・バックス(作曲家アーノルド・バックスの弟)で1913年のことだった。まもなく彼はある友人に、「自分は今、音楽を思いつかせてくれるようなことだけを研究している。そのために今サンスクリット語を勉強しているんだ。最近になって、それぞれの惑星の性格から自分は多くのものを得ることができた。だから、占星術についてもかなり詳しく勉強している。」1914年の夏に取りかかったものの、彼はロンドンのセント・ポールズ女子校で教えていたので、作曲に没頭できる時間は週末と休日に限られていた。2年を費やしてようやく完成した。
ホルストは「惑星」を生命の進化に喩(たと)えているように思われる。「火星」はたぶん、困難と苦しみに満ちた始まりを意味するものかもしれない。実際この楽章は、かつて書かれた最も荒涼とした曲だと言われている。
ホイットロック (1903-1946)
ソナタ ハ短調 より スケルツェット
Percy Whitlock
SCHERZETTO (from Sonata in C minor)
パーシー・ホイットロックは生涯に3つのソナタを書いた。2つは初期の作品でまだ学生だった1919年のヴァイオリンとオルガンのためのソナタ、1924年、ロンドンのロイヤル音楽カレッジでの最終学年に作曲したヴァイオリンとピアノのためのソナタ、これらは今のところ手稿が見つかっていない。
4楽章からなるハ短調のオルガン・ソナタは、まず第一に作曲家としてホイットロックの成長を示すものとして、第二にオルガン音楽のレパートリーの中で最も重要なソナタの一つとして、画期的な作品である。1934年の5月、静養のための休暇を取り妻のエドナとともに田舎をあちこちと散策したおり、バス修道院へ赴きそこでオルガニストのアーネスト・メイナードに会った。スケルツェットはその時に着想を得たもので、作者の典型的なスタイルで書かれている。英国人が書いたオルガン作品の中で、軽い調子の楽章としては最も長くかつ優れたものの一つと言えるかもしれない。かつてこの作品を精巧な(cunning)と評した人がいたが、それは疑いもなくこの曲はリズミックで巧妙に工夫されているからだろう。ユーモアのセンスと軽音楽への嗜好という、ホイットロック自身の性格を反映した作品である。
初演は作曲者自身により、1938年3月8日、西ロンドンのシナゴーグ(ユダヤ教の礼拝堂)でのリサイタルで行われた。
ヴラナ (1914- )
コンサート・スタディ
Frantisek Vrána (born 1914)
CONCERTANTE STUDY
チェコの作曲家フランティセック・ヴラナはヤナーチェックと同じくモラヴィアの出身である。ブルノとプラハでオルガンと作曲を学び、1939年にチェコスロヴァキア国営放送局のスタッフとなった。最初はピアニストとして、後には音楽部長として活躍した。主な作品は、交響曲、室内楽、声楽曲など。オルガン音楽としては、「パッサカリア」、「インテルメッツォ」、そして2曲の 「コンサート・スタディー」 (今日演奏するのは1934年に作曲された最初の方)がある。
アレグロ・ヴィヴァーチと記され、名目上はハ長調という調性を持つこの曲は全体として、技術的に高度なものを要求される。足鍵盤で弾かれる低く持続する静かな主音で始まるが、2つの外側(初めと終わり)のセクションは、上行する3つの音符からなる短い半音階的な主題をもとにリズミックで和声豊かな音楽へと展開する。最初のセクションに続く中間部は対照的に、あまり速くなく、歌うようにと記され叙情的な表情に支配されている。最後のセクションではペダルの最低音Cが再び現れ、大がかりな終結部へと展開してカデンツ(終止)を迎える。
フランク (1822-1890)
前奏曲、フーガ と 変奏曲 Op.18
César Franck (1822-1890)
PRELUDE, FUGUE AND VARIATION IN B MINOR, OP. 18
フランクはベルギーのリエージュに生まれたもののフランスの作曲家と見なされている。彼は生涯の大半をパリに住み、そこで仕事をしたからである。長年にわたって聖クロチルド教会のオルガニストを務めたが、少ない報酬に加え常に解雇の唆しに怯(おび)える中、彼は鋭い感覚の演奏で真価を発揮した。1858年、彼はクロチルド教会に新設されたオルガンを披露演奏を行う名誉を与えられた。この楽器は、パリに工房を持ち急速に名声を獲得したアリスチド・カヴァイエ=コル(1811-1899)の作品だった。彼は時には論議を呼んだ新技術を採用してオルガンの可能性を飛躍的に拡大し、19世紀後半のフランスのオルガン演奏や作曲に新しいスタイルが生まれるのを促した。彼の作品はパリのノートルダム大聖堂を始め多数の教会に見ることができる。フランクはその後30年余り、クロチルドの楽器を使って自分のアイデアを試すことができた。彼の重要なオルガン作品はこの間に作曲された。
「前奏曲、フーガ と 変奏曲」は、フランクの最も好まれるオルガン曲の一つで、容易に忘れられないメロディーを持つ作品だ。1860年から1862年にかけて作曲された6つの作品の一つで、サン=サーンスに献呈されている。長くてやや諄(くど)い旋律の前奏曲に続いて、それとは対照的に控え目なフーガ、そして前奏曲のテーマによる変奏曲はあたかも穏やかなさざ波のように続く。
コシュロー (1924-1984)
スケルツォ・サンフォニック (フィルセル採譜)
Pierre Cochereau (1924-1984) transcribed by Jeremy Filsell
SCHERZO SYMPHONIQUE (1974)
ピエール・コシュローは、パリ音楽院でデュプレ、デュリュフレ、デュフルクに師事し、オルガン、ハーモニー、および作曲でプルミエ・プリを獲得した。1942年にサン・ロック教会で、そして1955年にパリのノートルダム大聖堂の主席オルガニストに任命された。1950年から56年までル・マン音楽院の学長を務めた後、1962年からニース音楽院、続いて1980年にはリヨン音楽院の学長に任命された。
彼は世界中で25回のアメリカ・ツアーを含む2000回以上のコンサートを行い、テレビやラジオにも数多く出演した。作曲はきわめて少ないものの、卓越した即興演奏家として知られており、閃きのある、そしてまた輝かしいオルガン即興演奏にかけては定評があった。自分の情熱を多くの人々と共有し、オルガンという楽器を万人のものにしようという生来の願望を持ち、非常に敬虔な人であったコシュローは、ノートルダム大聖堂の典礼における自分の参加(演奏)はミサの進行と完全に一体になったものであると強く信じていた。彼に会ったことのある者は誰でもその伝説的なカリスマに魅了された。1984年不意に襲った早過ぎた死によって大衆とオルガンの世界は、たんに非常に有能多彩な演奏家のみならず、音楽はもとより文化全般にわたるきわめて幅広い教養を身につけた芸術家を失ったのだった。
彼の即興演奏は1970年代に幾つか録音されており、この名人芸的なスケルツォ・サンフォニックもその中にある。彼は1968年と1974年にほぼ同じ内容のスケルツォを弾いているが、ジェレミー・フィルセルが採譜したのは1974年の録音からである。
First uploaded: 2000.06.20