カルロ・カーリー氏に聞く       聞き手:大林徳吾郎


今から6年ほど前(=1980年頃)、私がデンマークに滞在していた時のことである。教会オルガニストの間では、あるアメリカのオルガン奏者の話で持ち切りだった。カルロ・カーリーという聞きなれない名前で、彼に対する意見は概して否定的なものが多かった。それがいっそう私の好奇心を煽ったが、やがてある教会で彼に会わせてもらうことになった。第一の印象は ... さる高名な音楽家から聞いて以来オルガニストに遭うたびに確かめてきた「オルガンの名手は小男」という原理がもろくも崩れ去ったことだ。とにかくカーリーは、身長も体重もそれまでに会ったいかなるオルガニストよりも大きく見え、にもかかわらずその演奏のテクニックたるや知る限りの世界的奏者を凌駕していたのである。レコードなどを通じて、知名度の高いオルガニストはたくさんいるが、楽器を扱う能力という点で彼にかなう者はまずいないだろうと思った。 2回目の日本公演を前に、去る(1986年)8月30日、オルガン奏者とオルガンという楽器の周辺が持つ課題について、語ってもらった。




《 大 林 》 オルガニストであることと他の演奏家であることとの違いとはどのようなものでしょうか。

《カーリー》 答えは簡単です。その差は驚異的に大きいものだと言えます。 音楽を愛する人々を結びつけている絆は、音楽家が聞き手を感動させたい、興奮させたり或いは心に安らぎをもたらしたりしたいと願うこと(から生じていると言ってもよい)でしょう。それは奏者自身の感動をいかにして音楽に表すかということに外ならない。オルガンと他の楽器との違いは、オルガンの音響的な可能性がずば抜けて大きいということです。あまり好きな言い方ではないけれども、オルガンはワン・マン・オーケストラです。

けれども、その可能性と引き替えに、オルガンという楽器をどう造るかという点について明確な基準が無いということが、オルガニストにとって重大な問題になっているわけです。ピアノならば88音の鍵盤が1つあるということは決まっています。けれどもオルガンでは、手鍵盤だけでも5段あるかもしれないし6段(!)のことさえある。ストップ数も、1個かもしれないし200個有るかもしれない。だからオルガニストは、残念ながら演奏している楽器によって評価が決まることがしばしばある。その時、演奏の純粋に音楽的な内容は忘れられていることが多いのです。つまり、彼は747ジャンボをうまく操縦できるだろうかであって、そのメンデルスゾーンの曲を音楽的に演奏できたか、とか、メロディーをよく歌わせることができただろうか、までにはなかなか至らない。だから優れたオルガニストは、オルガンを良く歌わせ、音楽的で自由の利く楽器として手なづけるために、他の音楽家の数倍もの仕事をしなければなりません。目ざすことは同じでも、オルガニストが音楽家としての究極に達することは他の器楽奏者より遥かに困難なのです。

《 大 林 》 ピアニストとオルガニストの大きな違いは「奏者と楽器との関係」にあるわけですね。

《カーリー》 全くその通り。残念ながら楽器こそが問題だと言えます。良きにつけ悪しきにつけ、この違いは大き過ぎる。夜中に目が覚めて、何故自分がピアニストでないのか自問することがよくあります。ピアニストのほうが常に、オルガニストよりもミュージシャンとして遥かに優れていることはあまりにも明白です。その違いは多分、ピアニストはオルガニストよりも、ある意味では、楽器のことを考える必要がないところから生じていると思う。オルガンを演奏する場合、200個有るかもしれないストップをどう使うかを初め、すべてのメカニズムが順調に働いてくれるかどうかまで気がかりです。途中で鳴りっぱなしになる音があるんじゃないか、スウェル・シャッターは閉じ切る時にバーンと大きな音をたてるかもしれない、コンビネーションピストンは必ずしも全部うまく作動するとは限らない、等々。これではオルガニストは、そのような不調が起こらないようにと願いつつも、苛立ちから解放されることはない。一方ピアニストならば鍵盤は(足鍵盤はなく1段で)88鍵に決まっているし、ベーゼンドルファー、シュタインウエイ、ペヒシュタイン、みな素晴らしい楽器です。概して音が鳴りっ放しになることもありません(笑)。もしそういうピアノかあったら一生に一度でいいからお目にかかりたいね(爆笑)。

《 大 林 》 ではそのオルガンという楽器についてですが...。今日のオルガン製作の状況について意見をお聞かせいただけますか。現代のビルダー(製作者)たちは、過去の素晴らしい楽器の作者、特に19世紀後半のフランスや英国の指導的な人たちと比べて、相当水準が低下しているのではないかと思う。そういった革新的な人々は、オルガン製作に関するあらゆる知識と技術を自らのもとに集約していました。今日のビルダーの中にそのような人を見出すことはまず絶望的です。

そして、昔は音楽に合わせて楽器を造ったのではなくて、音楽の様式とオルガンの様式とは、楽器の方か少し先か、大概は同時に平行して発展して行ったのだと思います。いずれにせよ、そこではオルガンビルダーとオルガニストとの間に良い楽器を生み出すためのアクティヴな関係があり、オルガン産業全体がもっと活気に満ちていたはずです。今はどうなっているのでしょう。あなたは世界中で、歴史的な銘器も、あるいは現代の良いもの悪いものあらゆる質の楽器を数多く弾いてこられたと思うのですが。

《カーリー》 全く同感ですね。今世界中でパイプオルガンを造っている人たちの中に、宗教的とさえ言えるほどの情熱と意欲を持って、素晴らしいオルガンを造ろう、より良いアクション、より良い音を求めて新しいシステムを見出だそうと、献身的に努力している人はまずいないのではないかと思います。メカニカルアクションのオルガン、或いはエレクトロニューマティック・オルガン、と受持範囲を限ったスペシャリストとしてのビルダーはいます。しかし現在の(大規模な)ビルダーで研究・開発に力を入れている所は殆んどないと言ってよい。20名以上も人を雇って『楽器の王者』を造っている企業にはそういった部門か絶対必要なのにね。この技術の進んだ世の中には、CDプレーヤー、コンピューター、何でもある。いくらオルガン製作が数百年の伝統を持つと言っても時代錯誤です。もう少し何とか、なりそうなものだ。

私の演奏について、「バッハがやらなかったのだから、そんなふうに弾いてはいけない』と言う人がよくいる。バッハはトイレに行くために家の外に出なければならなかったけれども、それは、彼が自分の家の中に下水の配管を引きたくなかったからではないのです。できることなら家の中で用を足したいと思ったことでしょう。(けれども当時はその技術が無かった。)私達は1986年に生きているのです。数百年の歴史を持つメカニズムをさらに良くできるなら、現代の進んだ技術をなぜ積極的に採用してはいけないのでしょう。

私自身の経験では、今日のオルガン製作者で(才能のある)演奏家と直接話しができ、演奏家の身になってその願いを聞き入れてくれる人は、世界中にやっと一人か二人いるかどうかという程度です。オルガニストの言うことに耳を傾けてくれるビルダーさえ少ない。理由は極めて簡単です。99%のオルガニストが楽器を注文する時に言うことの内容は、他人のあやふやな考えの寄せ集めに過ぎないからです。これでは、オルガンビルダーになり切ろうと頑張っている『商売人』の頭の中がおかしくなってしまう。例えば、今ここに25人のオルガニストがいるとしますね。この人たちに、あの8フィートプリンシパル(代表的なストップの名称)をどう思うか、とでも尋ねてごらんなさい。650通りの返事が戻ってくるかも知れない。同じ意見が出て来ないだけでなく、大半の意見か珠更に悪い面を強調したものであるに違いない。こんなわけだから、今日ではオルガン製作家の技量が低下してしまうのも致し方ないでしょう。

今一つの理由は、オルガンの需要の殆どが(欧米では)教会だからです。そこでは(当然ながら)典礼が最も重要なものだから、オルガンはどうしても隷属的になる運命にあります。これか今日のオルガン衰退の最大原因です。このため、現在世界中でコンサートホールのために造られているオルガンは、『オルガン音楽の素晴らしさを聴かせる』上で都合のよいものとは言えない。教会の中のオルガンは、とにかく目立ち過ぎてはいけないのだから。これでは、オルガン産業の中に、向上心や、新しいものに挑戦する意欲が芽生えて来ないのも当然です。

将来のオルガンの総てがメカニカルアクションを持つようになるかどうかさえ、私にはよくわからない。同僚のオルガニストの多く、例えばロバートニューレン、は全くトラッカーオルガンに愛想をつかしています。アクションの重いオルガンばかり弾いていると、腱鞘炎にかかって演奏できなくなってしまうと。何十万キロも離れた月の上に人間を送り、そしてまた無事に連れ戻すことのできるテクノロジーを持つ時代です。なのになぜこの地球上で、トラッカーアクション、特にカップラー機構の改善が進まないのでしょうか。トラッカーオルガンの原理には問題はなく、素晴らしいものです。けれども、シンフォニック・オルガンの時代は再び開きつつある。振り子は大きく揺れて、古臭い『博物館行き』の楽器から離れようとしている。今までその(音楽的に表現力の限られた楽器という)(仮面をかぶって権威をふるっていたオルガニストの、真価が問われるでしょう。レジストレーション(オルガンの音色を決めるためのストップの使い分け方)にしたって、その人たちは(音楽的に意味のない)単なる机上の規則を振りかざすことで自分の創造力の弱さを隠していたわけだから。けれども今や、ジャン・ギューを始め、心を込めて演奏し、音楽のためにならオルガンが持つメカニズムの限界を乗り越えることさえいとわない勇気を持った人たちもいます。

だからオルガン製作者にとって、そのような真に音楽家としての才能を持つオルガニストに耳を頃け、危険を冒すことをも恐れずに新しい挑戦を試みることは、緊急かつ極めて重大な課題です。彼らはまた、賃金水準の上がった今日、いかにしてコストを切りつめるかという点でも有効な解決法を求められている。そうしないと、電子オルガン産業との競争に勝てないでしょう。例えば自分もしばしばコンサートで使用する『ディジタル・コンピューター・オルガン』の音は、もしそれが無ければ私が弾かなければならなかったパイプオルガンの半数よりは楽器として優れているし、第一それほど大きなものではありません。10年か15年後には、オルガンという楽器は、コンピューターオルガンと、研究開発がもたらす非常に優れたメカニカルオルガン ―― それは現実的で未来へ向かって可能性の開けた演奏のできる楽器 ―― との両極へ向かって収束し、中途半端なオルガンを造っていたビルダーは淘汰される。私が生きている間に起こるでしょう。

《 大 林 》 次にあなた自身の演奏について少しお伺いしましょう。私がオルガンビルダーとして特に感心するのは、あなたのレジストレーションが、単に個性的であるのみならず、いつでもバランスが完全で絶対に破綻がないことです。まず私が知る範囲では他にそういう演奏家はいませんよ。(オルガニストは多くの場合、聴衆か聞くのとはかけ離れた音を演奏台で聞いて判断しなければならない。)レジストレーションの上で何か秘密のようなものでもあるのでしょうか?

《カーリー》 もちろん、たいていのオルガニストは自らの演奏が、『趣味のよいもの』だと思っているに違いありません。けれどもその人たちは自分の舌で味わえるものにしか関心を持っていない。(他人が美味いと感じるかどうかはどうでもよい。)多くの評論家や私が信頼をおいている友人たちは、私が幸運にも二つの大切な能力を授かっていることを指摘しています。一つは、リズム感覚というかテンポか非常に安定していること。もう一つは、特に音のバランスに対する判断力の点で、確かに良い耳を持っているということです。また、初めての楽器を弾く時には演奏台に座って5分か10分以内に演奏に必要なすべてのもの(手・足鍵盤、ストップ、スウェルペダル、各種のピストン等)がどこにあるかを覚えてしまいます。でも今挙げた能力はすべて、多分に先天的なものだから、別に自慢すべきものではないでしょう。

大切なのはそこから先です。すぐに曲を弾き始めて、終わったらさっさと帰ってしまうことはありません。まず演奏台の吟味をしている間に、次になすべきことを筋道立てて考えておきます。それからすることはつまり、その楽器が持つすべてのストップを、(単独で、また種々の組み合わせで)鍵盤の全音域にわたって弾いて聞いてみるということです。さらに、スウェルの扉の開き方、トレモロの具合い等、そのオルガンのあらゆる部分を調べることにより、可能な限りの音色を楽器から引き出すように努力します。

《 大 林 》 そのオルガンの、演奏に関係ある全部分をまず調べ尽くすわけですか?

《カーリー》 その通り。パイプのスケーリング(パイプの形や寸法がどうなっているかということ。オルガンの音色を左右する基本的な要素の一つ。)に至るまで熱心に観察します。オルガン製作への関与は私のホビーですし、オルガン演奏は私の生き方です。この二つは表裏一体である筈です。

《 大 林 》 なるほど、1台1台異なる楽器を製作しているオルガンビルダーとしては、おっしゃることはごく自然なことだと思います。私自身初めての楽器を見る時には時間の許す限りそのようにします。全部のストップの性格を把握しておかないとそのオルガンは弾けなし、それは(コンサートオルガニストなら)当然のことですね。

《カーリー》 私の演奏についてしばしば他のオルガニストたちが、レジストレーションが滅茶苦茶だ、スウェルを使い過ぎる、そんな風にバッハにトレモロを用いるべきではない、などと言うのを耳にします。もちろん、彼らはバッハが実際に何をしたのか今でもよく覚えているのだから、随分と長生きしたものだと感心します! 次のような格言がある。『もし演奏家が音楽の規則法則を熟知しているならば、必要に応じてそれを破ることもまた許される。』プロのオルガニストなら、覚えておいてもいい言葉じゃないかな。演奏にはルールなんてありませんよ。

だからこそ、コンサートの値段としては破格の金を払ってまでも、ホロヴィッツのピアノを聴きに行く人がたくさんいるわけです。なぜなら音楽に対する情熱が、またその時の気分が、彼の演奏を譜面とは随分違ったものにしてしまうことを皆承知しているからです。ホロヴィッツの演奏は、いわゆる解釈なんかじゃ到底ありません。例えば、スクリャービンの曲でプレスト、プレストという指示がある所を、彼ならば、アンダンテで弾くかもしれない。でも偉大なホロヴィッツですよ、どのような演奏をしようと全く自由だ。けれどオルガニストならまずそうはゆかない。少しでも毛色の変わったことをすると、例えばオーケストラ曲を編曲して弾くとか、フルートストップを重ねて旋律線を強調する、或いはリード管を使って少し風変わりな音を出す、などすればたちまちのうちに、『規則違反だ!』と声がかかるに決まっている。

バッハの音楽でさえ、息子のカール・フィリッブ・エマヌエルによれば、演奏上の何の規則もないということでしょう。すべては演奏者自身の鍛練と個性の問題です。つまり私たちが聞くことができるもの、イコール、今そこにあるもの一切、ではないですか。第一、とやかく批判する人たちの中に、年間100回もコンサートを行った経験の持ち主はいませんよ。

《 大 林 》 なるほど、クラシックの音楽家には本当の意味で音楽を演奏していない人がかなりいますね。特にオルガン音楽は私も一番苦手です(笑)。

《カーリー》 遺憾ながら現在のオルガン奏者には二つの大きな問題があるといえます。もちろんこれは一般論ですが、全体としては当たっているでしょう。第一に、普通のオルガニストの演奏は、余りにも仲間うちでしか通用しないようなものばかりです。彼らは、より広い聴衆に訴えるということに全く関心を持っていない。これはわれわれの職業における極めて重大な問題です。彼らは永い間にわたってあまりにもエリートであり過ぎたので、一般の人々から遊離しています。実際の世の中で何が起こっているのか気かつかないのでしょう。オルガンを聴きに来る人たちだって、耳を大きく開いて音楽を聴きたがっているのです。そこで私のやり方は、プログラムの前半には彼らが聴きたいだろう音楽を、後半で自分が聴いてもらいたい曲を弾くのです。そしてこれらを、ショーマンシップをもって聴かせるのです。(ショーマンとは、エンタテイナーということではなく、やりたいことを効果的に観客に示すことのできる人、という意味。)世界中の大演奏家をご覧なさい。皆、ショーマンです。例えばホロヴィッツ。素晴らしいショーマンです。ルービンシュタイン、ハイフェッツ、彼らは優れた演奏家であると同時に偉大なるショーマンであり、聴衆を掌中に帰することが自由にできます。でもオルガニストでそのような人は非常に少ない。数万人に一人と言ってもいいくらいではないでしょうか。特に西欧・米国では、オルガンがクリスチャンの一生の中で最も重要な役割を果たしているありふれた楽器だということを考えると、これは驚くべきことです。洗礼・結婚・葬儀、これらの人生の重要な局面はいつもオルガンによって伴奏されているのだから。にも拘らずピアノの方が、(音楽のメディアとしては)大きさの問題もあってより一般的な楽器なのです。

もう一つは、先にお話ししたレジストレーションに対する態度です。私の場合、もちろん特定のルールに従って決めているつもりはありません。良い音がすると思うものを採るまでです。トランスクリプション(ある楽器等のための作品を別の楽器等で演奏したり、そのために編曲したりすること)についても同じことが言えます。もしオルガンで弾いてうまくゆくことが自分で納得できれば、演奏します。

けれども、リズムをどうするかということになると、自分の中に自然に在るもの以外には、絶対にどこからも影響を受けることがありません。本当の音楽家は皆そうだと思う。あまりにも多くのオルガニストが、まるでタイプライターをたたくのと同じような演奏をしている。ヴァージル・フォックスは、ニューヨークのオルガン・リサイタルについて次のような名言を残している。『フーガの主題が一つ提示される度に、聴衆は二人ずつ出て行く。』 本当のことですよ! 私はもちろん相当ラディカルなことをしているかもしれません。波風を立てない人たち、自分の意見を持たない人々、彼らが何をやっているの分かるはずはありません。けれども、全体として素晴らしいことが起こるのであれば、意見を持っている人が勇気をもってそれを公言することは大切なことです。それによって多少一部の人の感情を害することがあっても、それはしかたないと思います。黙っていては、誰にも知られることがないわけですから。

《 大 林 》 オルガニストならばテクニックや音楽性は二の次だと容認されている現実と、オルガンこそが器楽演奏の中でも最高度の技術を要求されているという、全く相反する事実。オルガンの周辺は全く矛盾だらけですね。

ところで、日本ではクリスチャンは人口の1%以下で、またすべての教会にオルガンがあるわけでもありません。関係者の間では、わが国のオルガン音楽の普及はコンサートホールが中心になるだろうと考えられています。にも拘らず、あなたが言われるように多くのオルガニストは、演奏に際してコンサートホールと教会との違いをあまり認識していないように思います。日本におけるオルガン(音楽)の持つ意義について、あなたの見解をお訊きしたいのだけれど。

《カーリー》 私の前回の訪日経験と、他のオルガニストなどから聞いたところから判断すると、ソ連を除くと地球上で日本は、オルガンがピアノやバイオリンと同じ程度に音楽のメディアとして根を下ろし得る可能性が、潜在的には非常に大きい国だと思う。もっとも、それは、もしうまく導入できたならばの話だけれど。でも私自身は来日の経験が1回しかないので、主として人から聞いたことをもとに判断すれば、です。けれどもこの企ては、高度のプロの手によって遂行されないと成功はおぼつかないでしょう。

日本で何が起こりつつあるか、私は大いに関心を持っています。オルガン奏者についての一般的なお話しをしましたが、日本のオルガニストに対して、もちろん何ら反感を持っているわけではないし、『いま一つの』スタイルとして私の演奏を聞きに来られる方々を大いに歓迎します。

《 大 林 》 私は、あなたのやっておられることに関心を持っている、幾人かの日本の若いオルガニストを知っています。

《カーリー》 それは素晴らしい。大変嬉しいことです。いずれにせよ、チケットを買って聴きに来て下さる方がいるということは本当に大切なことです。

《 大 林 》 私たちオルガンに関心を持つ日本人として、大変示唆されるところの大きいお話でした。長時間にわたり、どうもありがとうございました。




... 語り口は面白いが、真剣にして辛辣、含蓄のある話を聞くことができた。オルガンという楽器とオルガン音楽の普及に注ぐ彼の情熱と努力は、並大抵のものではない。それは明らかに音楽家、芸術家としての社会的使命感によって支えられたものなのだ。 ...


翻訳・文責: 大林徳吾郎  (カッコ内はすべて聞き手・訳者である大林による註)。
このインタビューは、1986年8月30日にコペンハーゲン郊外のリュングビュで行われ、同年10月、来日公演の共通プログラムに掲載されました。





www.CARLO.com  カルロ・カーリー 公式サイト

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Last update: 2003. 6. 28.